唐津市 「田島神社」
田島神社は呼子町加部島にあります。
佐用姫が狭手彦との別れを惜しみ領巾振山で見送ったのですが
その後船影を追ってこの地まで来て
狭手彦の名を呼んで涙を流したそうです。
そこから、この地の名は「呼ぶ名」→「呼名」→「呼子」と変化してきたらしいです。
車で来るとこのルートになるので
一の鳥居、二の鳥居と思ったのですが・・・
実は
こちらが表参道のようです。
写真撮影している私の後ろは海です。
昔は松浦党の海賊団が
そして玄海の漁師たちが海上守護神として
信仰した肥前最古といわれる神社です。
海からお詣りするのが正規のなのでしょうね。
正面に
立派な楼門
石段の前に
この石は「元寇の碇石」
蒙古軍船の碇石だそうです。
玄海の海中より引き上げられたものだそうです。
古そうな鳥居だと思ったら「頼光鳥居」だそうです。
この鳥居は肥前鳥居として 佐賀県最古のもので、今より約一千年前(円融天皇、天元三年)大江山の鬼退治で有名な源頼光が肥前守として都より下向の際に寄進したものである。田島宮の文字は参議藤原佐里卿の筆である。その後 風波の為に崩れ上松浦党領袖 波多氏鳥居を修造して今日に至る。
※ 現地案内板より
今まで私が見た肥前鳥居の中ではスマートです。
扁額「田島宮」の文字は平安時代中期の公卿で能書家藤原佐里。
草書の第一人者で
流麗で躍動感のある筆跡は「佐跡」と呼ばれるそうです。
(すみません。扁額のアップ写真撮り忘れました。)
小野道風、藤原行成と共に三跡の一人です。
こちらからも拝殿へ向かうことができますが
正規の急な石段を上ります。
振り返ると海へ続く参道。
楼門の中には
可愛い石の随身さん
立派な楼門です。
左端の門は頼光鳥居からの入口になります。
境内にあった丸い石は
力石(ちからいし)
豊臣秀吉が名護屋在陣の折、その配下武将等が田島神社参拝に際し、海岸より一抱えもある円石を社前に運び上げ、此を両手で頭上高く捧げ得るかに依って、互いに力量を競い合ったもので、現在は一個しか残っていない。
朝鮮半島に近いので
元寇や文禄・慶長の役に関するものもありますね。
そして
大伴狭手彦も新羅に出征して行くのですね。
「狭手彦~!」
とその名を呼んだ佐世姫はここで石になってしまいました。
佐與姫神社
松浦佐與姫を祭るこの神社は、宣化天皇二年十月、大伴狭手彦は勅命により、任那を援護することになり、京の都を発し松浦国篠原の里に滞在した。篠原村長者の娘佐與姫は心優しく狭手彦と相思の仲となった。いよいよ出航の時、別れを惜しみ後を慕い、領巾振山(鏡山)に登り遥に船影を望んだ。更に松浦川を渡り沖合遠く走る帆影は小さく雲間に没して見えなくなった。姫の悲嘆は、ますます募り、田島神社の神前に詣でて夫の安泰を祈念しながらも泣き続け息絶えて神石となられた。世に言う望夫石である。これをお祀りしたのが当社である。豊臣秀吉より文禄二年百石の御朱印以来、徳川将軍家に引継がれた。その後、佐與姫の想いがかない、狭手彦は無事帰国した。以後、唐津城主の姫君などがお忍びで再三参拝され、良縁の御守りを持ち帰られた。以来、縁結びの守神として信仰厚く、男女の参拝は習俗となって現在も続いている。
※ 現地案内板より
佐世姫を追いかけてここまで来てしまいました。
佐世姫は石になってこちらで眠っています。
唐突ですが
昔のJR東海のCM「クリスマス・エクスプレス」を 思い出しました。
山下達郎さんの曲とホームでのカップルが印象的でした。
きっと君は来ない♪
来るのですよ!
佐世姫さん
待てなかったのかな~
無事帰国した狭手彦さんも落胆したでしょうね。
佐世姫さんを追っかけた旅は
石になった佐世姫さんとの対面でした。
一方狭手彦さんは?
狭手彦(さてひこ)は『日本書記』(720年)によれば、537年と562年の2回朝鮮に渡っています。もちろん、佐用姫との話は537年の第1回目の時のことです。
教科書では日本への仏教伝来は、538年です。これは、百済(くだら)の聖明(せいめい)王が大和朝廷に仏像と経典を奉った(まつった)ことを公式にしています。
それでその前年、つまり537年に狭手彦は出陣し10か月後に帰国しています。百済で佐用姫が亡くなったことを知り、まだ倭人には当時未知なる新思想である「仏教と仏像」が死者の霊を鎮めるということを聞き、聖明王にお願いし亡き佐用姫のために仏像を作ってもらい読経法要(どきょうほうよう)をしてもらったと言われています。
そして、後日狭手彦は、大和への帰路松浦川の鏡山山麓の赤水(あかみず)に立ち寄り、この地に祠(し)を立て佐用姫の仏像を安置したと伝えられています。
※ 唐津市HPより
田島神社お詣りしましょう!
御祭神
多紀理毘賣尊
市杵島比賣尊
多岐津比賣尊
相殿
大山祇命
稚武王命
御由緒
田島三神は遠い神代の昔に天照皇大御神が素盞嗚尊と剣玉の御誓にて御気吹の中よりお生まれなさいました三柱の姫神で御出現になりました。
当社の御鎮座の年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古い神社の一つとして知られています。当社への朝廷の御崇敬は特に篤く、奈良時代天平十年には、大伴古麻呂に詔命があって田島大明神の御神号をお贈りなされた。大同元年には神封十六戸を充てられ、正四位に列せられ中世以降は諸武将の崇敬も厚く、江戸時代に入ってからは唐津城主の祈願所となり、明治四年国弊中社に列格され、毎年勅使を派遣されていたが、戦後宗教法人となり別表神社に編入された。
御神徳
田島神社は、海陸交通安全、航海安全船舶守護、大漁満船、開運漁業者の崇敬が極めて厚く五穀豊穣勝敗繁昌の祈願所となり、古来より大陸の要衝でもあり、遣唐使は航海安全を祈願し、古社として崇敬され、現在に至っています。
田島神社に係る神々
天照大神(アマテラスオオミカミ)
天照大神は八百万の神の中でも最も尊い神である。太陽を司る太陽神、天皇の祖神、国民の総氏神ともされる。
八百万の神は山、海、風、雷といった自然の様々なところに宿っている。
風の神は、空気を淀ませないように風を吹かせる一方で台風を起こす強い一面もある。
また海の神はたくさんの食料を与える一方で津波による大災害をもたらす。
このように神様とは、恵みを与える和魂(ニギミタマ)災いをもたらす(アラニタマ)が混在する。
しかし太陽だけは人に災いをもたらさない。これが太陽神である天照大神の偉大さなのである。
天照大神は太陽神としての一面を持ってはいるが神御衣を織らせ、神田の稲を作り大嘗祭を行う神とされる。
※御霊は伊勢神宮内宮の荒祭宮(アラマツリノミヤ)に祀られている。
素戔嗚尊(スサノオ スサノオノミコト)
古事記によれば神産みにおいて伊邪那岐(イザナギ)が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、鼻を濯いだ時に生まれたとする。これは神道の祓詞にもある。
出雲の国で八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)を退治しその尾から出てきた草薙剣(クサナギノツルギ)を天照大神に献上し
それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる。現在は熱田神宮の御神体である。
多紀理毘賈尊(タギリヒメノミコト)
市杵島比賈尊(イチキシマヒメノミコト)
多岐都比賈尊(タギツヒメノミコト)
天照大神と素戔嗚尊の誓約で産まれた三柱の女神で、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全を祈願する神様として崇敬を集めている。
天照大神が国つくりの前(天孫降臨より以前)、誓約により生まれたこの三女神に対し「九州から半島、大陸へとつながる海の道(道中)へ降りて、歴代の天皇を助け奉り、天皇から篤いお祭りを受けられよ」と命じた。
道中とは玄界灘であり、篤いお祭りが田島神社のそれぞれのお祭りであると思われる。
級長津彦神(シナツヒコノカミ)級長津姫神(シナツヒメノカミ)
古事記では神産みにおいて伊邪那岐と伊邪那美の間に生まれた上であり、風の神としている。
神名の「シナ」は「息が長い」という意味である。古代人は、風は神の息から起きると考えていた。
風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人に大きな被害をもたらす。
そのため各地で暴風を鎮める為に祀られるようになった。
※御霊は伊勢神宮内宮の風日祈宮(カゼヒノミノミヤ)に祀られている。
大山祇命(オオヤマツミ オオヤマスミノミコト)
神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」「大いなる山の神」という意味となる。
別名の和多志大神の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち山、海の両方を司る神ということとなる。
※御霊は伊勢神宮内宮の大山祇神社(オオヤマツミジンジャ)に祀られている。
稚武王命(ワカタケオウノミコ)
父に日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)を持ち兄は十四代天皇仲哀天皇である。
猿田毘古神(サルタヒコノカミ)
古事記、日本書紀によると天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊を道案内した国津神である。
※の記載を検証すれば田島の神々は伊勢神宮内宮と同一の神々を祭り伊勢との繋がりが深い事が確認される。
※ 現地案内板より
主祭神の三柱は宗像大社祭神の宗像三女神と同じです。
ここから海岸沿いに北東へ向かうと宗像大社。
玄界灘の守り神ですね。
振り返ると楼門の先は玄界灘!
思わずニンマリしてしまう狛犬さん。
石灯籠の上で曲芸する狛犬さん。
裏の坂道を少し上ると
二つに割れた岩
磐座?
「太閤祈念石」だそうです。
一名願かけ石、太閤石、祈念石とも呼ばれている。本殿後の森林中に在る大岩石である。豊臣秀吉文禄の昔、当神社神主等七日間の断食潔斎沐浴して祈念を修し、「速やかに大願就せば、この巨巌二つに割るべし」と祈りて、満願に達した時、秀吉自ら神前に熱?をこめ 槍の石突を以て巨巌を突くと、一山鳴動して真二つに割れたと伝えられている。
※ 現地案内板より
御崎神社
御祭神
級長津彦神(しなつひこのかみ)
級長津姫神(しなつひめのかみ)
猿田彦神 (さるだひこのかみ)
文禄の昔、小鷹丸の船首に、瑞真榊を立て三種の神器を奉り、大陸に七度の往復をしたが無事帰国した。その後、神恩感謝の為、姫島の神々と船霊の御守護と共に海上安全の守護神としてお祀りすることになった。
※ 現地案内板より
佐世姫を追いかけて
たどり着いた田島神社。
玄界灘の安全を守る宗像三女神が主祭神でした。
大伴狭手彦がここから朝鮮に派遣されて
百済を救ったり、高句麗を討伐したり
元寇や文禄・慶長の役に関係したり。
その名残もある歴史ある神社でした。
そして
案内板に詳しい説明があって嬉しかったです。
その分引用だらけになりましたが…
田島神社
佐賀県唐津市呼子町加部島3965-1
TEL 0955-82-3347
大きな神社さんですね
参道の階段が急で 間違って
転んだら 海に落ちそうですね(-_-;)
作用姫
愛する人の出兵を悲しんで 石になって
しまうなんて・・・
また 愛する人の死を悼んで 仏像を
彫ってもらう・・・
そう言う尊い心だからこそ 神格化
するんですよね・・・
唐津・呼子…2○年前に行きました。
こんないい所があったんですね。
呼子はその時イカを食べた事しか覚えてないですね…今でも忘れられないぐらい…美味しかったのを覚えています笑笑
そのあと数年後にイカにあたって、イカを食べられなくなるというオチもついてます笑笑
仏教的な追善供養が日本人で初めて
佐用姫さんの為になされたという様に
考えられますね。
悲恋の言い伝えがあるんですね。
いい感じのところですね。
狛犬、立ち上がった物と逆立ちしている物が対に成っている。のも、結構あるんですね。
由緒正しい、鳥居と扁額立派ですね。
元寇の碇石なんて、残っているのですね。初めて見ました。
悲恋の話なのですが
純な二人の気持ちに惹かれて
唐津藩のお姫様が密かに恋愛成就のお詣りに。
今も恋愛のパワースポットなのでしょうね。
ここで佐世姫を追いかける旅は終わるはずでしたが
もう一か所ありました。
呼子へ行かれたのですね。
今回、私も呼子のイカの活造り楽しみにしていました。
呼子のものは透き通っていて美味しいのですよね。
食べ終えた後出てくるイカげその天ぷらも最高です。
この日は時化ていて水揚げがなかったことで
どちらのお店も閉店で残念でした。
日本に仏教が伝来したのは日本書紀によると552年。
狭手彦が朝鮮に派遣されたのは
日本書紀によると537年頃ではないかと。
仏教伝来より先に仏像を持ち帰ったことになるのですね。
最愛の二人は生きて再会はできなかったですね。
待てなかったのか
待っていて欲しかった。
と思うのですが。
神様のお名前は漢字で書かれると読むのは一苦労です。
同じ神様でも漢字表記が異なっていたり。
こちらの案内板は読み仮名があるので親切なほうですね。
でも分からないところが悲しいです。
呼子と中州「河太郎」さんのイカ活造り有名です。
石灯籠の上で曲芸している狛犬。
こちらには割と多いようでした。
元寇の碇石は私も初めて見ました。
朝鮮半島との関係も深い場所ですね。